生と死の街バラナシで、人の生について考えた。
目の前で人が燃やされるのを見た。
ガンジス河のほとりにある、
マニカルニカガート。
ここでは、毎日毎時間、
ガンガーの側で火葬が行われています。
私が訪れた時も、
4つの炎があがっていました。
ボートに乗り、遺族の方の顔が見えるほどの距離まで、近くに行くことができます。
ふと目をやると、不思議なことに気がつきました。
見送りに来ている人達、誰も泣いてる人がいません。
小学生くらいの子どもですら泣いていませんでした。
「ここで火葬されるのは、僕たちヒンドゥー教徒にとっては本当に幸せで、祝福するべきことなんだ。それなのに泣いてしまうと、亡くなった人が残された人のことを心配して天国に行けなくなってしまうでしょう?」
私たちが見ていると、布で包まれた遺体が運ばれてきました。
息子でしょうか。まだ本当に小さな子が、遺体をガンガーに浸すのを手伝っています。
無意識にも言葉を失う光景です。
燃える炎に、白い煙、くすんだ空気に濁ったガンガー、微かな独特のにおいと、見送る人々。ひとつひとつの情景が心を刺激します。
今、この前まで生きていた人が一生を終えて目の前で焼かれている。
信じられないような、
悲しいような、少し美しいような。
今ここに「生」と「死」がつまっているような、そんな感覚になりました。
この人は、一体どんな人生を送ってきたのだろう。
どんな思いで、この世を旅立っていったのだろう。
どうしてこの人は、そして私は、生まれてきたんだろう。
この命を賭して、何を残すんだろう。
「死」って、なんだか恐ろしく、触れてはいけないもののように捉えがちですが、必ずしもそんなことはなく。
人は、死を感じることで、この今の人生に向き合うことができるのだと知りました。
強烈に命が入り乱れる。
そんな「死」を間近で感じるバラナシですが、
同じくらい強烈に、「生」を感じる場所でもあります。
ガンガーで沐浴する人。祈る人。
道で物乞いする老人。平気で詐欺を働く人。
川辺で洗濯する女。トランプで遊ぶ大人たち。
ぼーっと河を眺める男に、ドラックに飲み込まれている若者。
道のゴミを食べる牛。川辺で群れているヤギ。
どうしてこうも、インドは「生」を感じるのでしょう。
まともに働きもせず、仲間たちと毎日遊んでいるインド人に「ねえ、働かないの?」と聞いた時、彼は「自分は死ぬまでこうやって生きていくよ!」と楽しそうに言いました。
「生」を感じるその理由を言語化するとして、間違いなく言えることが一つあります。
彼らは、間違いなく自分のために生きていました。
自分の欲に忠実に。
「ルール」や「世間」「すべき」に囚われている日本人。
いつも何かに追われ、時間がないと言っている私たちは、一体何に追われているのでしょうか。
その正体はきっと、他人の目。
そして、その奥には自分の目。
日々に追われている人にこそ、
インドは一度行ってみてほしい場所ですね。
ああ本当は、もっと自由に生きていいのかも。
って、心が楽になるかもしれません。
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