言葉にできない感情の正体が、愛だとしたら。
「愛してる」という言葉を、
私は言ったことがない。
「愛してる?」と聞かれた時、
小さな違和感を感じるほどに、
私にとって、この言葉は
私にとって、この言葉は
簡単に吐けるものではない。
人は、恋に「おちる」と言う。
恋に「おちる」というように、
その現象に、その人本人の意志はない。
顔や性格、相手の持つ何かに魅力を感じて、
自分の心が勝手に踊る。
顔や性格、相手の持つ何かに魅力を感じて、
自分の心が勝手に踊る。
それが恋というやつだ。
人は、誰かを「愛す」と言う。
勝手に胸が高鳴る恋とは違い、愛するという言葉には、ハッキリとした主語がある。
「愛を誓う」「あなたを愛し続ける」というように、愛には意志が存在している。
「愛を誓う」「あなたを愛し続ける」というように、愛には意志が存在している。
恋とは、相手が持つ所有物、つまり容姿・性格・才能・富・仕事・家柄などの
属性に価値を感じて一時的に高揚する、「相手に受容されたり相手を支配することによって、相手と一体化したい」と願う感情である。それに対して、愛とは、自分という存在の価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようと努力する、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。
甘い言葉を吐いていたのに、
時間が経てば冷める男女や
どうせいつか愛にも終わりが来るんだから、
と語る大人たち。
無常という言葉があるように、
人の心が移ろいでいく事実に、
心のどこかで哀しさを感じていた私にとって、
時間が経てば冷める男女や
どうせいつか愛にも終わりが来るんだから、
と語る大人たち。
無常という言葉があるように、
人の心が移ろいでいく事実に、
心のどこかで哀しさを感じていた私にとって、
この本の一節は私に大きな気づきをくれた。
愛は、永続的な意志。
相手を愛すという選択をし続けること。
愛とは、勝手に変わっていく制御できない感情ではなく、持ち続ける意志なのだと腑に落ちた。
愛とは、勝手に変わっていく制御できない感情ではなく、持ち続ける意志なのだと腑に落ちた。
そしてそれは、「ただ存在してくれていることへの感謝」ゆえ。
愛と感謝のエネルギーは似ている。
なぜそう思ったのかは忘れたけれど、
なぜそう思ったのかは忘れたけれど、
以前そう考えたことがたしかにあった。
顔がどうとか、性格がどうとか、そんなことを全て取っ払って、ただその存在がこの世にいると思うだけで心が優しくなるような感覚。
”愛してる、だって
あんなにかっこいい人もう出会えない。”
”愛してる、だって
”愛してる、だって
こんなに優しい人きっといない。”
”愛してる、だって
”愛してる、だって
私をずっと好きでいてくれたから。”
心を満たすその出会いも、きっと素晴らしい。
だけど私たちは、
その人自身を愛しているフリをして
自分を満たすその人の何かの条件を「愛して」いるのかもしれない。
だけど私たちは、
その人自身を愛しているフリをして
自分を満たすその人の何かの条件を「愛して」いるのかもしれない。
愛が、ただ存在への感謝からくるものだとしたら、愛している理由を言葉にするのはきっと難しい。
理由がない。
ただ、存在が愛おしい。
「なぜ好きなの?なぜ愛しているの?」と問われたとして、答えられないその感覚が、
ただ存在してくれていることへの感謝であり、愛の始まりなのだとしたら。
ただ存在してくれていることへの感謝であり、愛の始まりなのだとしたら。
人は案外、自分の持ってる愛の種に気づいていないだけかもしれない。
自分の持つ愛に気づいた時、何が起こるだろう。
ただ人が人を愛するその姿が、
世の中にどれだけエネルギーを与えるのか私は知っている。
愛に気づき、人を愛する選択をすること。
そんな愛の循環を生み出す人が増えていくことを、心より願う。
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