Purusha blog

光に還るものたちへ

真理を探究した結果、真理はなかったという話。

 
真理はない、というよりも
何もないという真理がある、
という方が的を得ているかもしれない。

真という名前の通り、

真理というものをこれまで
探究し続けてきた自負がある。
 
人はどうして生まれ、死んでいくのか。
この世の仕組みはどうなっているのか。
きっとあるであろう、
一番奥にある真ん中の真実を知りたくて
哲学、心理学、脳科学量子力学
スピリチュアルなど色んな概念に触れてきた。
 
約1か月前、
「ノンデュアリティ」という言葉を知り
一気に真実に踏み込んだ気がした。

※ノンデュアリティとは、非二元のこと。仏教で言う「色即是空」の「空」。

この世界は、一つのエネルギーが、いろんな形としてあらわれていて、全ては完全に一つ(二つない)です。 そして時間は存在しません。無時間に、人、動物、自然、物質、全てが現れています。 世界は一つであり、分離は表面的なのです。

(by.大和田菜穂さん)

だけど、理解していくほどに、消えていった。
近づいたら何もなかったという蜃気楼のような。
 
そして理解していく過程で
自分の今までの価値観が
ガラガラと音を立てて崩れていった。
まさに、価値観の崩壊。
自我の崩壊。自我の死。
 
ノンデュアリティに触れた人の
大多数がこういうクラッシュを起こすらしい
ということは後から知った。
 
 
この世の全てはストーリーで幻想だし、
自由意志もなければ意味も無い。
私がこれまで心の軸に置いて信じてきた
「全てに意味がある」という信念、
スピリチュアルな目に見えない世界、
魂も、使命も、生まれてきた意味も、
前世や自分が人生を創っているということも。
物質はもちろん、時間や宇宙空間すらない。
とにかく名前のつく全てのものが無い。
わたしはいないし、あなたもいない。
誰も生きてないし、誰も死んでない。
自分という存在があって、
この地球という世界に
生まれて生きていると錯覚しているだけで
自分が思考していると錯覚しているだけで
自分が何かを選んでいると錯覚しているだけで
全てはただ「ライフ」の表現・現れとして、
起こることはただ起こる、
本当は誰もなにも考えてないし選んでない。
 
雨が降るのと同じように、
植物が育ち枯れていくのと同じように、
ただ人間という現象が起こっているだけ。
 
もし本当にそうなのだとしたら、
自分というこの意識はなんなんだ。
自分はただ受動的に起こる物事を
体験していくだけの生きる屍のようなもので
それこそ、なにも生きてる意味がない。
ただ人間としての見せかけの命が
消えていく流れに身を任せて
死んでいくだけ。その命にすらも意味もなく。
 
そんなの嫌だ。
しばらく、虚無感に襲われた。
それを腹落ちさせることが悟りとか目覚めと
言われるものだとしたら、
なんて退屈なんだろう。
悟りとか目覚めなんて、いらない。
幻想だとしても、まだ夢を見ていたい。
人間らしく、人間ドラマを感じていたい。
 
 
この非二元の考え方が嫌なら
自分に取り入れなければいい話なのだけど、
「でも、ここに知りたかった答えがある」
って心のどこかでわかってる自分もいて
ずっと葛藤していた。
 
揺るぎなかった信念がブレて、
どう人生を捉えたらいいのか
わからなくなっていた。
 
 
たけど、ふと、自分の中で変化が起こった。
 
 
この世の全ては、無から起こっている奇跡。
作り上げられた素晴らしい幻想、
素晴らしいストーリー。
この、誰も気づけないくらい精巧な
素晴らしい幻想世界に入り込んで
主人公として生きてると感じること、
他者と自分という存在がいて、
他者との繋がりを体験できること、
他者がいることで自分を知れること、
自分で思考し、感情を味わい、
人生を選んでいるように錯覚できること、
一本の人生を歩んできたのだと
時間が感じさせてくれることの
なんと素晴らしいことか。
なんて面白いことか。
 
ストーリーこそが、ギフトなんだと思った。
ストーリーは虚しい真実なんかではなくて、
私たちに与えられているギフト。
全てなるものが、
自分自身を知るために
創り出した奇跡のシステム。
全ててなるもの自身の"知る遊び"。
(本当は、与える存在すらもいないし、
こう捉えることすらも、自我の自分が
勝手に意味付けしたストーリーなんだけど)
 
求めていた真実なんてものは、なくて、
ただ全ての可能性を秘めた、
究極の「無(空)」があるだけ。
空は全てを受け入れている。
空が、「なにもない」から、
すべてのことが「ある」ことができる。
 
そういう意味で、空の視点から見れば
存在も意味も何も無い。主体がない。
本当になにもない。まっさら白紙。
 
でも、
 
だから、自由に意味づけできる。
 
今、この瞬間、
思考が、勝手にただ湧いてくる。
勝手に現実が起こっている。
(これらを「起り」と言うらしい)
その起りに、
どんな意味をつけ「解釈」するのか。
その意味付けと解釈がストーリーをつくる。
解釈を紡ぐことで、
「人生」という幻想ができあがる。
これは時間という概念のなせる技。
そうして、私たちは体験を楽しんでいる。
 
全てがまっさらだからこそ、
幻想世界・ストーリーが存在できること。
それこそが奇跡であり、
無条件性の愛と言われるものだったんだ。
 
絶対的な意味はない。
だから、好きに意味付けすればいい。
不要な意味付けは棄てて、
自分の好きに、
起こる出来事を楽しんでしまえばいい。
好きに意味づけて、この世界を愛せばいい。
 
 
「空」を知り、「空」を生きるのか
「空」を知り、
「色(ストーリー)」を生きるのか
どっちで生きたっていい。なんでもいい。
「(個人の)自分」が面白い方を選べばいい。
 
それもあるべくして起こるのだけど。笑
 
現時点での私はこう思っています。
 
 
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